恋愛小説 食恋 弓月ひろみ

2013年04月04日

第8話オムライス・クライシス

私たちは、きれいに、オムライスを平らげた。
回収したお皿をキッチンへ運ぶ。
ざぁざぁと流れる水の音が、私の心の中で沸き起こる騒音を、消してくれていた。

棚の中には、私たちが時間をかけて揃えてきた食器たちが並んでいた。
シリアルを食べるための丸くて大きなボウル。カフェオレを飲むための色違いのカップ。
彼らは静かに、番(つがい)になって棚の中に収まっていた。

仕事に戻るから。そういって私は鞄をとった。

彼女は一瞬、えっ、という顔をして私を見た。どう思われても良かった。
一刻も早くここから逃げ出したかった。
すばやく玄関のドアを開けると、私は廊下にとびだし、後手にドアを閉めた。
アパートの廊下には、夕焼けが差し込んでいる。三歩歩いてすぐつまずいた。
上手に靴を履く暇もなかった。いつでも走り出せるような、はきなれた黒いパンプスが、照らされている。
階段を降りて、早く立ち去ってしまおうと思った。少しでも遠くへ。ずっとずっと遠くへ。
なのに私は、そこを去ることが出来なかった。
都会のくせに、綺麗に日が沈んでいく様子が見える屋上。
1人の時、いつもそうしていたように、屋上から、夕日が見たかった。
もうここには帰らない、そう思ったら、余計に見ておかなければならない気持ちになった。
階段の1つ1つが、やけに重たく感じる。あと一段。あと一段で、夕日に手が届く。
瞳の隙間に、差し込むグラデーション。

いつもの景色を見た途端、糸がぷつりと切れた。

しゃがみ込み、座り込み、涙が溢れた。
どうしようもなく悔しくなって、膝を抱え込んだ。コンクリートの冷たい手すりが頬に当たる。
どうしようもなく悔しかった。発狂することができなかった自分。
卵が割れないように、袋をそっと置いた自分。
ユタカの目の前で泣くことすらできなかった自分、そういうものすべてに腹が立った。
悲しみの置き所がわからなくて、怒りのやりどころがわからなくて、目を瞑った。
誰かに助けを求めなくては、壊れてしまうと思った。
けれど、一体誰に助けを求めたらいいのか、私はわからなかった。
まるで、手にも足にも、力が入らない。頭さえ回らない。
もう、ここから落ちてしまえたらいいのに、そんな風に思った。
落ちたら楽になる。
逃げる事もなく、受け止めることもなく、この、ぐるぐると回る世界を止めることができるのに。

チリリリン。

期せずして、携帯が鳴って、私は我に返った。
気づけば、空はすっかり藍色に変わっていた。
携帯に届いたのは、メールだった。香恵だ。メールが苦手な香恵からの。
私は、慌てて、涙を拭う。
画面を開くと、そこには絵文字もない、シンプルな言葉が並んでいた。

『美希ちゃん、会いたい』

助けて欲しいのだと、すぐに解った。
私は、すう、と息を吸って、目を瞑り、空を仰いだ。
立ち上がると、スーツを、パンパン、と叩いた。
もう一度深呼吸する。
長い呼吸のあと、私は「美希」を、取り出した。
私の中にいる、頼られる姉御肌の、優等生で、真面目で、動じない、「美希」を。
私は泣いていたけれど、「美希」は背筋をしゃんとして、しっかり前を向いていた。

どうした?と返すと、数秒たって点滅がやってきた。

『色んな事、話したい。』

私も。私は心の中でつぶやいて、いつにしようか、と返事した。
そして、駆け出すように階段を降りた。タクシーを拾って、一直線に、私の部屋へ帰った。

それから一週間たった今も、ユタカから、連絡はない。
           

      
             *           *              *


 電話を終えたふりをして、席に戻ると、香恵が、恋をしていた。

巻いた髪を揺らして、頬を少し上気させて、楽しそうにビールを飲んでいた。
香恵、あなた、何か苦しんでいたんじゃないの。と、私は苦笑する。
そして、その「ふたり」を見つめながら、私も、ユタカも、あの日、
7年前のあの日、こんな風に始まって、こんな風に恋をしていたんだと思った。
きっと、誰の目から見ても明らかに、あの日、私達は、無遠慮に恋をしていた。

私は何かを、間違えたのだろうか。
自問しても、私は答えを見つけられない。
でも、きっと、何も間違えていない。きっと間違えていない。そう、きっと。
私はただ健気で、私はただ、ユタカが好きだった。た
だ、はじまってしまった恋は止められない。それだけのことだと思った。

私はユタカの電話番号と、大切にとっておいた、保護されてばかりの、ユタカのメールを、
フォルダごと消した。
いつか2人で懐かしむ為だった思い出は、指一本で消えていった。

自分のことが二の次。そういう私は変わらない。
それはいつも、私を支えるアンカーだ。
でも、あのオムライスは、もう作らない。
次からは、パセリなんか入れない。チーズなんか入れない。
大好きなチキンライスに、よく焼いた卵で包んだ、私の大好きなオムライスを作るのだ。

さよなら、ユタカ。さよなら、ユタカのオムライス。




「オムライス・クライシス」完
posted by 弓月ひろみ at 00:00| 恋愛小説 食恋