恋愛小説 食恋 弓月ひろみ

2012年03月01日

第1話 とりあえず、ビール。

必ずしも、なくちゃいけないわけじゃない。
でも、なくなったら困る。
そういう存在に、僕はなりたかった。
そう僕が言うと彼女は、不思議そうな顔をした。
僕は何よりも先にビールが飲みたい。中毒にならない程度に毎日飲みたい。
だから「とりあえず」と言われるような存在に、僕は、なりたかったのだ。

  *      *     *       *      *

仕事は楽しい?と電話で母に聞かれると、決まって僕は「まぁね」と答える。

新卒、5年目。 こじれるほどの人間関係はなく、胃痛になるほどの緊張感があるわけでもない。
取り立てて成績が良いわけでもないが、職場で息を殺すような溜め息をつくこともない。
日曜の夜ふと翌日が憂鬱になることはあっても、それは「有意義な休日にできなかった」自分への叱責のようなもので「仕事にいくのが本当に嫌だ」というわけではない。
この生活に大きな不満があるわけではない。だから「まぁね」と答える。

僕の勤める会社には、酒好きばかりが集まっていた。プロジェクトの親睦を兼ねた中規模なもの、チームの新人歓迎会。 総務が仕切る大規模な会。何かと理由を付けては酒の席が用意される。繰り返される宴会の趣旨はそれぞれ違っても、メンツは、そう変わらない。いつもそんな調子だった。

5期年上の山内先輩は正月明けから一ヶ月、全ての会に顔を出している。
「俺はイケメン芸人ランキングなら3位には入る」が定型句の人だが、つい先月、彼女にフラれたらしい。寒い季節に恋人を失うということは”ひとりの冬がくる”という心構えのあった僕よりも、わびしさが募りそうに思える。ここの所、毎晩のように飲みに誘われるのも、多分それ故だろう。
 
彼と、僕の同期数名が集まるのはいつも、安い居酒屋だ。その日も、降り出した雨のことなどお構いなしに、定番の居酒屋に集まっていた。乾杯の生中を1杯飲み切ったところで、先輩が唐突に言う。

「アレ、なんだ?」

居酒屋の壁には、いつのまにか定番化した『相田みつを風の習字文字』で、おすすめメニューが書かれている。僕は少し目を細め、2秒思考すると、テーブル端のAndroidに手をのばす。
検索窓から開いたタブが結果を表示するのを待ってビールで唇を湿らし、表示された概要を読み上げた。

「百合根…ゆりね。狭義には食用とされるユリ属植物の鱗茎のことで…
 広義にはユリの鱗茎全般を指すこともある。…茶碗蒸しなどに入れて食されることが多」

「お姉さん、あれ、1つ。」

僕の”Wikipediaより引用”は2行で遮られた。注文を聞いてメモする店員ごしに、先輩を見る。
僕はあからさまに不満気な顔をしていたらしい。先輩はりりしい眉を片方だけ大げさにあげた。

「お前モテないぞ。そうやって、すぐググるの」

僕は、ひるんだ。

「…今のは先輩の疑問に答えただけですけど」
「いや、お前、大概そうだから。直ぐググる。」

そんなことは、と言いかけて、やめた。僕は確かに、すぐネット検索を使う。それは、意識せず呼吸が出来ていたように、いつのまにか身に付いていた習性だった。けれど、それが悪いと思ったことはない。むしろ良い事だと思ってやってきた。だから、反論した。

「知りたくないですか普通。食べた事ない物ですよ。」
「おすすめメニュー。つまり食べ物。そんなら、食べりゃいいだろ。」

そういって先輩はスーツの左胸ポケットから煙草を取り出して置き、ライターを取りだして置き、二つを並べてみてから思い出したように小さく息をつき、ライターを少し投げやりに、コツンと置き直した。理由は知らないが、1ヶ月前から禁煙を始めたらしい。

「世の中には、別段、知らなくていい事もある。」

いつのまにか"説教モード"に突入した先輩は、僕を見ずに煙草を眺めながら言う。
吸うのでなければ、捨ててしまえばいいのに、未練がましい。と、僕は思う。

「お前、ネットに頼り過ぎてるよ。検索なしで生きられないだろ」
「知らない事を知りたいだけですよ。調べれば知識は増えるんですよ。それっていいことじゃないですか。」

知りたいと思う。だから調べる。「知らないこと」は日常生活に現れる、予想もしない"とっかかり"だ。その、とっかかりから、知識を増やす。楽しいと感じる。それが悪いこととは、僕には思えない。疑問を持たず、調べもせずに淡々と過ぎていく日々のほうがよっぽど悪い気がする。

先輩は思い詰めたように(というよりは未練がましく)眺めていた煙草から目を離し、僕の方へ向き直って身を乗り出した。
 
「いいか。ネット頼りの知識をな。今みたいに口にして言ってみろ。女子に好かれる可能性はものすごく低い。」
「低いって、どの程度ですか。」
「好かれる可能性は20%、嫌われる可能性は60%。」
「ソースどこですかソレ」
「ソースソース言ってんじゃ」
「じゃ、先輩の妄想ってことっすね」
「経験だよ。経験のない蘊蓄野郎は嫌われるぞ。」
「そんなドヤ顔で言ってるわけじゃないし」
「そういう問題じゃないんだよ。何でもかんでも試す前に調べるなっつってんだよ。」

先輩の隣にいた同期達は、いつのまにか、めんどくさそうに体の向きを変えて黙々とビールを飲んでいた。お前ら、相手しろよな。と思うが、敢えて口にはしない。

「わかってねぇな。情報を持ってるからって、経験を持った気になるのは、タチが悪いって話をしてんだよ。お前、ないか?名前も場所もメニューも評価も知ってるのに、行った事ない店。」

そういわれて僕は黙った。そう言われれば、そんな店が無数にある気がする。テレビで話題の店。口コミで人気の店。評価の低い店。高い店。その店の話題が出れば「ああ、知ってる。カツカレーがマズいとこ」「おすすめは裏メニュー」と言えるような店がいくつも。

「フルハイビジョン撮影された世界遺産の映像を、デカいシアターで見たら、それは感動体験かもしんないけどさ。それで行ったような気になったら、間違いだろ。行こうと思えば行けるところを、行った気になって、行きたいリストから外す、それが間違いだってハナシだよ」

そんな風に、先輩は付け足した。
先月までは合コンの開催場所を、ネットの口コミ見て決めてたくせに、と、僕は、自分を棚にあげられる先輩を若干うらやましく思う。

そして、ふと、視線を店の入り口に移した。

その時、目に入ってきたのが、彼女だった。
posted by 弓月ひろみ at 02:00| 恋愛小説 食恋