恋愛小説 食恋 弓月ひろみ

2012年03月15日

第2話 とりあえず、ビール。

黒い髪は、呆れるほどに艶やかだった。毛先は快活そうに、くるりと内側を向いている。
プリーツスカートは彼女が裾を払うと揺れ、その度、白い膝小僧がチラチラと覗く。
外は、強い雨になっているらしい。
クリーム色のシフォンブラウスは肩口から、柔らかそうな二の腕までが濡れ、ぴたりと張り付いて肌色の曲線を見せていた。

彼女は店員にピースする。
続けて女性がもう1人入ってくるのを見て、それが「2人」という意味だと気づいた。

「ネットのリアルと、自分が触れられる"現実"は別物だからな、だからお前は…」

僕の向かいに座ったまま、先輩は変わらず持論を展開している。
その肩の向こうに、僕は、彼女を盗み見た。

「2名さま、こちらへどぞー」

舌足らずな店員が彼女たちを棒読みで案内する。店内は混雑していて、空いているのは、さっきカップルが帰ったばかりの僕達の隣の席だけだ。ついさっきまでは、「ここに可愛い女の子が来たらいいなぁ」と、思うことすら忘れていた。

明るい額。高い頬。
自分に「タイプ」なんてものが存在すると思っていなかった。
どんな系統が好きかと聞かれても、いつも詳細を答えられなかったけれど、今は解る。
彼女は僕の「タイプ」だ。
持論絶賛展開中の先輩の言葉が、耳の後ろへとフェードアウトしていく感覚を覚えた。

「お前、聞いてんの?」
「あ…ハイ」

やや不快そうに響いた先輩の声で、僕は一瞬だけ意識を戻し、形式だけで、頷き、

「二次元と三次元の話をしてるわけじゃない。いいか、大切なのは体感して学ぶことなんだよ。メディアからの情報ソースと妄想のソースと、そこに体感で得たソースが混じって…」

…かけたのだが。自分の目が、正面から彼女をとらえた時。

盛大に音楽が鳴った。

いや、実際に鳴ったのではなく、鳴ったのは僕の頭の中でだった。
しかもそれは、あろうことか、あの、マドンナだった。まだ若い頃のマドンナの高い声が、リズミカルに叫ぶBGM。そんな自分に派手なツッコミを入れたくなる状況の中、少しずつ近づいてくる彼女は、金髪美女が主人公のコメディ映画のようにスローモーションに見えた。
僕の目は、鳴り響く音楽に乗せられるようにして、オートフォーカスで、彼女のあらゆるパーツと、パーツと、パーツと、パーツを、追いかける。わずかに上がった口の両端、ぷっくりとした下唇。涙袋。ブラウスを形作る胸のあたりと、すらりとした足首。
喉の奥、胃の中、肺、口の中、あらゆる所から得体の知れない「もぞもぞ」がやってきて、僕はそれを慌てて消した。そしてそれをごまかすように、ビールに口をつけた。

「学んだ経験値は、オリジナルなものなんだよ。それは口コミのサイトからは得られない貴重なものだ。それこそが、俺たちが得るべきものなんだ。わかるか?」

適当な相槌のリズムは、妄想プレイヤーのマドンナに乗せられる形になり、僕は3回も首を振ってしまった。そんな僕のことは先輩もいざ知らず(彼は語る時、決まって上顎をあげて、一方向を眺めながらしゃべるクセがあった)独演を続け、そのわずかな相づちの合間に彼女は僕のちょうど斜め前に座った。プリーツスカートをそっと押さえながら腰掛ける姿。こういう時、つい女性の膝裏から腰にかけてを追ってしまうのは何故なのか。本能か。

「あー、喉かわいたね。何飲む?」

彼女が友人に話しかける声は少し高めで、やわらかい。
それでいて媚びるような甘さはなく、ハキハキとしていた。笑顔からのぞいた歯並びがかわいい。女優の吉高に似てるな…と思いながら、彼女は何を頼むだろうのだろうと、ジョッキを傾けつつ、横目で観察する。

彼女は、まったくメニューを見ていなかった。嬉しそうに口角をあげたまま、iPhoneをチェックしている。彼氏からのメールか?Twitterか?Facebookか?…確定以前の情報(つまり妄想か)を思い浮かべて、悶々とした気持ちになる。
一目見た瞬間から独占欲が始まるなんて、自分は思いのほか肉食だったのか、と思ったけれど、「妄想」に妬いている時点で根暗じゃないだろうか、とも思った。

二人はしばらくしてから、互いに「決まった?」と聞きあった。それからアジアからの留学生だと思われる女性店員がやってきて、舌足らずに「お決まりですか」といった。

「私、カシスオレンジお願いします。」

と吉高じゃないほうの女の子が言う。彼女は、

「私、とりあえず、ビール!」

といった。とりあえずビール。とりあえずビール。
それが、はちきれんばかりの笑顔で、僕は呆気にとられてしまう。

「ほんと好きだね、ビール。私…苦くて無理だわ。」

吉高じゃないほうの女子はそういって、眉をしかめているらしい声を出す。らしい、というのは、彼女に注視しているせいで「ジャナイホウ」を確認している暇がないからだ。

「うふふ。だから美味しいんだよ。私は、毎日飲みたいけどなぁ。」

彼女はそういった。そうだ。すごく同感だ。僕も、毎日飲みたい。ビールなら何杯でも。そんなことを考えていると、「ジャナイホウ」が、まるでデジャブかのように、壁のメニューを眺めていった。

「あれ、何て読むのかな…」

ゆりね。です。それは、ユリネ、と読みます。そして、そのユリネというやつは…僕が頭の中で、さっきのWikipediaを暗唱しようとしていると、吉高な彼女は

「とりあえず、頼もうよ。食べよ。」

といった。ジャナイホウが抵抗する。

「…え、まず店員さんに聞いてみない?」
「でも、名前が可愛いよ?」
「は?」
「多分おいしいよ」
「…はぁ?」
「オススメメニューなんだから、食べてみればいいと思う。…すいません、お姉さーん!」

いつもなら「理由がスイーツすぎてついていけない」と思っただろうけど、僕は既に盲目エリアに入りつつあって、その「可愛いという理由を可愛い」と、感じた。それでも、これがサソリの唐揚げみたいなゲテモノだったらどうするんだろうとは、チラリ思った。

しばらくして店員が、冷えたグラスに並々と注がれたビールを持ってくる。キメ細かい泡。2層のパッキリとした境目。少し曇ったグラス。垂れる結露。うん、美味しそうだ。この店は、綺麗ではないし店員も数名を覗いて投げやりな態度だけれど、ビールは最高のコンディションで運ばれてくる。だからいい。
彼女は「わぁ」と声をあげ、それから店員に笑顔を向けて御礼を言い、受け取った。いい笑顔だ。ジャナイホウにはカシスオレンジが運ばれていく。

「それじゃ、カンパーイ!」

豪快にグラスを合わせる音が響く。彼女は片手でジョッキを持ち上げ、ごくごくとビールを飲んだ。そして、そのままCMになりそうな笑顔で

「うまっ」

と、言った。
ますます目が釘付けになった僕は、そのまま彼女を眺めていたい衝動にかられたけれど、このまま見続けていたら「何ガン飛ばしてんですか」と、いや、そんなことを言われることはないだろうけれど、ヒソヒソと「あの人、なんかずっとこっち見てるんだけど」と女子達に言われるに決まっている、だから石のように固まった目を、ずずっと眼前の山内先輩に向けた。先輩はまだ独り語りを続けていた。

「世の中には、二通りの人間がいる。それは、ビールを好きな人間と、そうじゃない人間だ!」

先輩の独演は最早、僕にとって中学の授業のようだった。女子のうなじや下着の透けた背中に気をとられていたら、知らぬまに教科書が何十ページも進んでいた、かつての夏のような。
僕は「そっすね」と答えてスルーしかけ、その台詞を何気なしに反芻した。

世の中には、ビール好きな人間か、そうじゃない人間かだけ。その台詞と、視界の端で美味しそうにビールを飲む彼女の姿が、僕にある事を思い出させた。

それは、半年前に別れてしまった、メグミのことだった。



posted by 弓月ひろみ at 23:00| 恋愛小説 食恋