恋愛小説 食恋 弓月ひろみ

2012年05月06日

第4話 とりあえず、ビール。

「すいません、生、ひとぉつ!」

 僕の愚かな回想シーンは彼女の…メグミではなく、目の前にいる彼女の、高くて柔らかい声で遮られた。

先輩はいつのまにか、鈍い反応しかしなくなった僕をあきらめ、残りの後輩たちへ「うなずき」を求めて顔向きを移動させていた。あたりはいつのまにか、やかましい笑い声に包まれている。

 出遅れた感。悔しい。そして無意味に過去の出来事を思い出させられたことで、口の中がじわりと苦くなった。

「すいません、生、ひとつ!」

飲んだところで、どうにでもなるわけではない。でもビールの苦みが、口の中に広がるわずわらしいコレを相殺してくれるなら、これほど嬉しいことはないと思った。

メグミの、何でもすぐにネガティブな方向に解釈をして駄々をこねるところや、僕の言った些細な事を気にして泣くような煩わしさや、僕だけを責めた台詞の数々や、勝手に期待して勝手に裏切られたと泣く姿勢が気にくわない、納得できない、それから最後の一言、そう、最後の一言が、強烈な往復ビンタのように、頭をかけめぐって痛み、また戻って来て痛むのだ。

 
『簡単じゃない、そんなこと。それが、どうして出来ないの?』


 「はい、生デース、どぞー!」
舌足らずの留学生が勢い良く僕の前にビールを置く。それは相変わらず、よく冷えていて、小さな結露の粒を垂らしていた。左手で掴んで持ち上げる。上唇を、もわりときめ細かい泡が覆う。舌の上から、奥へと注ぐ麦の味。しゅわり、しゅわりと炭酸が駈けていき、喉を刺激する。ゴクリと鳴らしながら飲み込んだ。ビールは何杯目でも変わらずおいしい、僕の心を細やかに潤してくれる。
ビールはいい。何につけてもとりあえずビールだ。僕は一人で頷いた。

「すいません、生ひと1つ!」
 
通路を挟んだ向かいにいる彼女が、同じようにビールを頼んだ。その声に釣られて、僕はアルコールのピッチを速める。

ぐび。
「すいません、生ひとーつ!」
ぐび。
「すいません、生ひとぉおつ!」
ぐび、ぐび。 

そして、彼女と目があった。彼女の前にいるはずの”ジャナイホウ”が、席を外している事に気がついた。それから彼女が、今にも吹き出しそうな、笑いをこらえた顔をしているのに気がついた。その瞬間、僕は思い出した。僕にとって彼女は「テレビの中の女子アナ」のようなものに思えていたけれど、僕と彼女の境界線にはフィルターは何もない。それを認識した途端僕は、生中の太いガラスの飲み口を上唇にぶつけてしまった。ガツンと鈍い音がして、ガラスと歯の間で潰れた上唇から、血が滲む。鉄の味。

彼女は、はっとしたように僕を見て、気遣うような眉の形をした。数秒の間。
それから、僕が照れたように笑うのを見て、彼女は息をつき、その唇に半弧を描きなおし、言った。

「大丈夫ですか?」
「あ…ハイ」
 
声が上擦った気がした。無意識に舐めた唇から、ビールの香りと血の味がする。

「好きなんですね、ビール」

彼女の声は、澄んでいて、それから、何故か嬉しそうな響きを含んでいた。

「いや…その、なんていうか、まぁ」

僕は答えを探す。

「なんか自分との戦いを…。していただけです」

すごくバカっぽいことを言っている、と気づいたけれど、もう撤回のしようがなかった。

「自分と…」
「はい、あ、そうです。自分と。」

彼女は、ふふふ、と笑った。

「なんか、すごいおいしそうに飲むなぁと思って。」
「あ、はぁ」
「みてたら楽しくなっちゃって」
「……。」

自分好みの女の子に、向こうから声をかけられるだけで青天の霹靂だった。それなのに彼女は僕をみて「楽しくなっちゃって」と、言った。それで僕がビビらないわけはなかった。なんせ「お前、モテないぞ」と、さっき言われたばかりの僕だ。どう会話を続けたらいいのか、彼女が何故僕に声をかけたのか、彼女はいつから僕を見ていたのか、瞬時に色々な考えが頭の中を走り、僕は次の台詞を失った。でも。

「何杯目ですか?それ」

彼女が僕のグラスを指さして言った。キャッチボールが彼女から来た。
それでも僕は答えに詰まる。慌てて声が掠れないように、また、唇を舐めた。

「たぶん…5…6杯目かな」
「あ、私、負けてる。」
「でも、あの…あなたの方が、後に来たから。それは当たり前じゃないでしょうか。」
「ああ、そっか。」
 
間。

沈黙は苦手だ。
でも彼女はそんなこと気にもしないように、薄く綺麗な唇の端をあげながら、ビールのふちを二、三度、指でなぞっている。
そしてふいに顔をあげた。


「そうだ。何歳ですか?」
「えっ…?僕ですか。二十…七ですけど」
「おんなじだ。よかった。」
 

おんなじだ。よかった。

僕は言われた台詞を反芻し、理解できずに黙る。すると彼女は、急に俯いて口元を抑え、鈴の鳴るような音で笑う。なんだか、自分だけが秘密を知っている、という感じだった。その仕草は、意味不明なのに、とても可愛らしかった。彼女は不思議な空気と、テンポと言葉を持っている。僕はずっと、しどろもどろだ。すると

「なんか表情、豊かですね。」

と、彼女がいった。

「ずっと、いろんな表情してて、見飽きないです。」

ずっと、いろんな表情してて、見飽きないです。

僕はまた台詞を反芻する。酔っているわけではない。酒には強い。でも、頭が整理してくれない。突然の出来事と、彼女のこのテンポと難解な言葉。この感じはリスニングが出来たのに単語の意味がわからず答案用紙に何もかけない。戸惑ったままでいると、「ジャナイホウ」の彼女が帰ってきて、僕と彼女を見比べて聞いた。

「どうしたの?」
「ミキちゃん、おかえり。あのね、ビールすごく美味しそうに飲んでたから、私がナンパしたの。」

ナンパ。一瞬まともに、言葉通り受け取りそうになり、いや、いや、いや、そういう意味じゃない、と思い直した。多分これは、よくある女子用語だ。自分から声をかけた、というだけの表現だ。だまされるな、と僕の心が僕に言った。

「珍しいね、カエが自分から声かけるなんて」
 
カエ。それが彼女の名前のなのか、と僕は心のEvernoteに記録をとる。

「うん、そうなの、あのねミキちゃん」
「おい!お前、何してんだよ」

彼女達の会話を遮った声に、ぎくりとした。声は、独演会を終えたらしい牧野先輩だった。その瞬間、僕は、ああ、めんどくさいことになる、勘弁してくれ!と思った。先輩が女の子の事を嗅ぎ付けて、頭を突っ込んでくると、ややこしいことになる。でもこれは大体恒例のことだ、こうなったら取り返しがつかないんだいつも、いやでも、今回だけは勘弁して欲しい、何より入ってくんな、邪魔すんな、と心の中で、いや実際に歯ぎしりをしそうになった。

「いや、先輩、あの僕は」
「お前、なんだよ、なんなんだよ、何いきなりナンパしてんだよ〜」
「いや、そういんじゃないですよ、別に」
「嘘つけコラ。彼女達、超かわいーじゃん。ねーねー何してんの、何してんの?あのさ一緒に」
「あの、そういうの迷」
「一緒に飲みましょうよ。ね!」
「いやだから、そういうの迷惑でって」
「いやお前に聞いてないから!」

すると、いつのまにか、脇から、あれよあれよと同期が畳み掛けてきた。
 
「2人だけも寂しいでしょ?俺らと飲みましょうよ」

僕は、彼女達の反応を伺ったが、彼女達は、あはは、いいですよ、と応じた。そしてあたりは、いつのまにか大宴会になった。

…くそ、リア充っぽい。

僕は思わず呟くが、それを誰かに拾われることはなかった。一対一では話せても、大人数だと僕の出る幕はない。先輩が話すことに適当に相づちをうったり、ひな壇芸人のように、それはなぃっすよー!とヤジを飛ばしたりする。僕はその役に、そのあと2時間を費やした。その間、彼女が飲んだビールは10杯。彼女はまぎれもない酒豪だった。

 
                          * *  *

パーティは引き際が肝心だというけれど、引き際が美しい宴会なんて、僕は見た事がない。
1次会のあと、2次会はカラオケで、カラオケボックスで、女子2人と僕たちは合計4時間一緒に遊んだ。
彼女はそこでもビールを飲んでいた。浮気することなく生中を続ける彼女を見て、潔いというか、ある種馬鹿なんじゃないかと思った。かくいう僕も、途中、瓶ビールにうつったり、ハイボールにうつったりしながら、ビールを飲み続けていた。

そして「そろそろ終電なんで」と「ジャナイホウ」…ミキさんが言って、宴会はようやく収束の兆しを見せた。

 「ねぇ、メアド教えて、メアド」
「あ、私Facebookやってるから、それで」
「アカウント、何で登録してる?俺は、yuアンダーバー…」

 "いつもの飲み会"が"いつのまにか合コン”になってしまった宴会の最後は”SNSをやってない時点で負け組”なエンディングを迎えているらしかった。僕は彼女をチラチラ見ながら、手持ち無沙汰にAndroidの画面を右にフリックしつづける。

 
「じゃ、メッセするね」
「うん、するする」
 
女子2人は僕たちにTwitterとFacebookのアカウントを教えた。
と、いっても、僕はどちらもやっていなかったから、それは使える情報では全くなかったけれど。
 
「カエ、やばい、あたし急がないと」とミキさんが言う。同期と先輩が、彼女達に、電車どっち?私鉄?JR?と聞く。宴会の最後によくある、そんな見慣れたやりとりを、僕は人ごとのようにぼんやりと聞いていた。だから彼女が
 
「あの、どっちですか、電車」

と僕に聞いたとき、最初、僕は、僕が聞かれていると思わず、3秒ぐらいのフリーズタイムを勝手にもらう形になった。

「あ、ああ…私鉄」
「私も。何線ですか?」
「田都線の、駒」
「あの、私、かえりまーす!半蔵門線なんで、こっち!」

駒沢大学、に食い気味に、彼女の声が大きく重なった。その「かえります」は僕に向けられているものではなくて、「みんな」に向けられているものだった。そして彼女はおもむろに、音が鳴る程派手に、僕の腕を強く掴むと、きびすを返すように皆に背を向け、真っすぐ前を向いて、小声で「走りますよ」と言った。僕は呆気にとられる。それは彼女が最初に放った、あのビールの「うまっ」と同じぐらい爽快な声だった。

そして、彼女はヒールを鳴らして、走り出した。
僕も、走り出した。
posted by 弓月ひろみ at 02:01| 恋愛小説 食恋