恋愛小説 食恋 弓月ひろみ

2012年12月01日

第5話 とりあえず、ビール。

普通に流れていく毎日で、僕が走り出す瞬間といえば、電車のアナウンスが聞こえた時だけだった。
しかし僕は何故かいま、女の子に腕を掴まれたまま東京の街を走っている。
人生って何が起こるかわからないなぁ、と、実感がないまま、頭がそう分析していた。

さっきまでの雨のせいで、道のくぼみに水たまりが出来ている。
彼女は、それを避けようとして走りをゆるめ、転びそうになる。
その様子が危なっかしくて、僕はふらついた彼女の肩を支えようとする。
けれど腕を掴まれているせいで、瞬間的にどこを持てばいいのかわからなくなり、片手が不格好にさまよった。
「あの」
不器用に歩く彼女を追うようにして「どこまでいくんですか」と聞くと「横浜駅」と帰ってきた。
「……横浜?!」
僕は驚いて言う。彼女は「あれ」という顔をした。
まさか歩いていくわけじゃないだろう事はわかっている。僕は一瞬考えたが、彼女の意図はよめなかった。
「大丈夫、このまま一番近くの駅までいくだけです。ちょっと歩きたかっただけ」
少し謎めきながら笑っている彼女の肌は艶々としていて、頬骨は少し高くて、少し上気しているように見えた。
もしかしたらそれはチークっていうヤツのせいかもしれなかったけれど。
黒い髪は、動く度まるでシッポのように揺れていた。
僕は、僕が横浜の出身で、実家は近くにあるけれど、ほとんど帰ったりすることはない、という事を話した。
彼女は「そうなんだ」と言っただけだった。

「ビール、好きなんすね。カエさん」
「うん、好き。」
「でも、シラフじゃないですか、今。」
「そんなこともないですよ」
「かなりビール好きですね。俺も、ビール好きですけど」
「うん。それは、わかった。」
そうだ。最初、それで、彼女は、僕を見て笑っていたんだから。
彼女が僕にそうして声をかけてくれたことを、僕は思い出し頷いた。
ビールをがぶ飲みしていただけで「ナンパ」されるなんて、今日は奇特な日だ。

彼女はバックを後ろ手に持ちながら、天を仰いでニコニコ歩いていた。
そしてビールって、いいですよねぇ。と言った。

「仕事をしていると、めんどくさいこととか、こんがらがったりすることとか。そういうことって、
 結構あるじゃないですか。そういう時に、私は、ビールがあるといいなぁって、思うんです。
 必ずしも、なくちゃいけないわけじゃないんですけどね。
 でもなくなったら困るっていうか。そういうものな気がするんですよね、私にとっては。」

彼女の生活に、こんがらがること、なんてあるのか。めんどくさいことや、いろんなことが、あるのか。
まったくそう見えなかった彼女がそういったので、僕はまじまじと彼女の顔を見た。

「なんかこう、とりあえずビール!っていう拠り所があると、元気になれちゃうみたいな。」
そう言い切った彼女の顔は、とても清々し、
「ああ…なんか。そういう存在に、なりたいっすね。」
と、思わず僕は口走っていた。彼女は、不思議そうな顔をした。
「何よりも先にビールが飲みたいんですよ。中毒にならない程度に毎日飲みたい。
 だから、そういう風に思われたいんです。
 とりあえずっていうのは、決しておざなりにしてるわけじゃなくて、真っ先にって意味で。
 とりあえずビール、の、とりあえずって、そういう意味じゃないですか?
 そういう風に思われるのって、嬉しいことじゃないんですか。
 何か、変なんですかね。そう思う事に、理由とか、説明が、いるんですかね。」

気づかなかった。僕は、酔っていたらしい。もしかしたら走ったせいかもしれない。
語尾は、少しだけ、情けなく歪んで、僕は自分に動揺した。
二人の間にしばらくの沈黙が漂い、彼女が少し、言いにくそうに口を開いた。

「…それ、誰かに、言われたんですか?」

それ、誰かに、言われたんですか。すとんと僕に降りてきた問いは、不思議なほどまっすぐだった。
誰かにそれを、僕は言われたのだっけ。この問いを、僕にしたのは誰だったのだろうと考えた。
そして思い出した。この問いを僕にしたのは、僕自身だと。

「僕は、おかしくないだろ。」
そんな自分の問いに、「そうだ、おかしくないよ。」という答えを期待していた。
 Aという問いにはB。Bという問いにはC。
いつかのメグミのように”言葉の響き”にかこつけて、揚げ足をとりすぎていた。
ビールの話をしていたはずなのに、いつのまにかそれが「恋」の話になっているように。
まるでメグミの残したトラウマのかけらが、体中あちこちに散らばっているように。

そして、僕は、ふと、気づいてしまった。
 融通が聞かなかったのはメグミじゃなくて、僕だったんだと。

彼女が望むことをしてやらずに、自分の気持ちばかりを押し付けた。
聞きたかった台詞を言う事で彼女が幸せになれるなら、僕は、そうしてあげるべきだった。
そんなこと、簡単だったのに。
僕は「わかってあげること」より「わかってもらう事」ばかりに注視しすぎた。

 Aという問いにはB。Bという問いにはC。

その公式を最初に決めてしまったのは僕だった。
しかも彼女を「否定する」という最悪な公式を。
「望む事を言わない」という定型句を決めてしまった。

けれど、僕にとっては定型句を言う事なんて簡単だった。
簡単だからこそ、言いたくなかった。
どうしても、感覚的な気持ちを、重ねたくて仕方なかった。
犬が尻尾を振るような、感覚的な気持ち。
思わずビールに飛びついてしまうような、あの感覚的な気持ちを。

急に押し黙った僕を、彼女はしばらく見ていた。
そしてぽつりと、口にした。

「いろいろ。ありますね。働いてるし、生きてるもんね。」

それは同情ともとれるような響きだったけれど、決して見下すようなニュアンスのものではない、
暖かい温度の声だった。それで、僕は少しだけ目を醒ます。

・・・今日あったばっかりの人に、一体何を言っているんだ!!!

「す、すいません。なんか、すいません。意味不明なことを。すいません。」
「いえ。いいんじゃないですか?なんか、こういうタイミングだから言えることって、あるもん。」
せっかく会えたんだし。せっかく話せたんだし。と彼女は言い、
「私は、うれしかったですよ。」
といって、僕を見た。街灯が、彼女の背後から、何本かの線を作って、僕の目に届く。
「こういう話、会社の子とは出来ないし。せっかく話せる相手がいたんだから、別にいいじゃないですか」
心地よい春の風が、ちょど僕たちの間を通り抜けていく。

そうだ。せっかく。せっかく、せっかく会えたのに、このまま駅についたら、僕と僕たちは終わってしまう。
近くの駅なら、もうあと2分ほどだ。この交差点の信号が変わったら、僕たちは二度と会えなくなるかもしれない。
本名すら知る事もなく。
僕は慌てて言葉を探し、慌ててフレーズを用意しようとし頭の中を引っ掻き回す。
彼女を引き止めたい。半年も心にフタをしていた僕に「痛かったこと」を思い出させてくれた彼女を。

彼女を引き止めなくては。

…メアド教えてください。 いや、それは何か軽い。
Twitterはじめます。 いや、それは何か違う。
facebookはじめました。 いや、それも違う。

「ごはん、しませんか、今度」
選び抜いた言葉はそれだった。そして彼女の顔を見て、即座に悟った。
きっと答えはNOだ。でも、それでもいい。言わないよりマシだ。
とにかく、このまま彼女が、本当はどこの誰なのかわからないまま離れてしまうのは嫌だった。
彼女は真顔で、ハッキリ答えをいった。

「…ダメです。」

僕は、自分でもわかるぐらい、がっくりとして、うなだれた。
それから、5秒後。
周囲が驚いて振り返るほどの笑い声がして、僕は顔をあげる。
目の前には彼女の顔があり、その顔、ひどいですよ、と苦笑まじりに言われた。

「ごはんじゃなくて」
「え」
「とりあえず、ビール。今から、しましょう。二人で。」

多分、ビール好きにしかわかんない事って、いろいろありますよ。
そして彼女は豪快に笑うと「よーし、もう一件いくぞー!」と、僕の手をとった。

口をポカンとあけた僕が、状況を理解したのは、それから25分後の話。
カエさんが、今日15杯目のビールを、勢い良く注文してからだった。


*    *   *  *    *   * *    *   *


必ずしも、いなくちゃいけないわけじゃない。でも、いなくなったら困る。
そういう存在に僕はなろう。
何もより先に会いたい。
中毒にならない程度に毎日会いたい。
感覚的な気持ちを、重ね合わせられる人に「とりあえず」と言われ続ける存在で、
僕はいたいと思うのだ。





「とりあえず、ビール。」完
posted by 弓月ひろみ at 05:09| 恋愛小説 食恋