恋愛小説 食恋 弓月ひろみ

2013年03月14日

第6話オムライス・クライシス

コツン。音を立てて殻が割れる。

それはクリアボウルの中に、するりと、滑り落ちて、ゆらゆら左右に踊って止まった。
まぶしい真昼の海に反射する太陽のようだ。鮮やかなオレンジの真ん中を、私は、そっと押しつぶす。
黄身がとろとろと流れ出て、マーブルの模様を作る。
素早く、泡立て器でかき混ぜると、リズミカルに音が鳴る。

 シャカ、シャカ、シャカ、シャカ。
これが聞こえると、いつもユタカは、少し遠くから「いつできる?」と聞いた。
時にはゲームをしながら、時にはテレビを見ながら、時にはメールをしながら。
だから言葉の最後はいつも、長く間延びして私の耳に届く。
私は真似するように大きな声で、残りの時間を告げる。
テレビや音楽に負けないように。すると「わかった」と声がして、後は、静かになる。

ユタカは、いつも黙って料理を食べた。おいしいとか、おいしくないとか、言ってくれたことはなかった。
でも、いつも、耳をそばだてて、私の料理を、待ってくれていることが嬉しかった。

*               *                    *                  *               *                    *

美希は、大変ね。いつも誰かの面倒ばかりみて。母は私にそういった。
共働きの両親の長女に生まれ、物心ついた頃から、三つ下の妹と、六つ下の弟を見てきた。
その所為か何処に居ても、長女の役割に収まるようになっていた。
同級生や後輩や、時には先輩の面倒を見て。でも、この役から降りたいと思ったことはない。
この役割が、私のアイディンティティの一つだと理解しているからだ。

頼られれば頼られる程、役に立つ人間だと感じられる。
「生きていても良い」と許可された気分になる。
女は甘えた方が、可愛がられるものと解っていても、変わろうと思えなかった。
簡単に異性に甘えられる友人や、ふわふわと可愛らしい砂糖菓子のような女の子達が、時に羨ましく見えても、私の性には合わない。

私は、常に優等生だった。
中学・高校は部活の合間を縫って勉強をし、六大学の一つを出た。大学ではサークルのリーダーになり、寝る間もなく課外活動に勤しんだ。必死の就職活動の末、希望していた出版社に入った。やりたかったジャンルの編集部には入れなかったけれど、仕事は面白かった。

働き始めて直ぐ、有能な上司が評価してくれるようになった。
生意気な女と言われることもあったけれど、いざという時には頼られる。
それが、嬉しかった。

優等生でいるのは、楽だ。すべきことは、努力だけ。
感情を表に出したり、我が侭を言ったり、自由奔放に振る舞うのは気が重い。
優等生なら、求められる行儀の良さを全うすれば良い。

役割に疲れた時は、煙草を吸った。
たった一ミリの煙草を「吸っている」というのは恥ずかしい気がして誰にも言わなかった。
親友の香恵(カエ)も、この事は知らない。
イレギュラーな存在の、角はすり切れてしまっている。

誰に怒られる年齢でもないのに、誰かに見られてはいけない気がして、いつも自販機でしか買えなかった。人前で悪い事が出来ない私は、そうやって、自分で自分を裏切った。まるで、溜飲を下げるように。


その日は、香恵が私を誘った。香恵は中学の頃からの同級生だった。

いつも可愛らしく、ふわりとしていて、そのくせ哲学的な言葉が好きで、突拍子のない言動で人を煙に巻く。香恵はそんな女の子だった。勉強が嫌いなわけではないのに、ふと図書館に行きたいと思いついて授業をサボってしまうような、大胆さがあった。
香恵が先生達に叱られないようにアフターフォローをする私に、男友達は「お前も大変だな」と、よく言ったものだ。

でも私は香恵の、人の目を気にしない所や、決めた事には一直線に向かっていくような、そんな実直さと素直さが大好きだった。私もあんな風に自由になれたら、という一種の羨望の気持ちと、尊敬の気持ちを、香恵にはずっと抱いている。

「色んな事を話したい」と香恵がメールしてきた。週末の夕方だった。
彼女がそんな風に言うのは珍しい。私も、香恵に話したいことがあった。

電話では話したくない様子の香恵の為に、居酒屋に行く事にした。メールから一週間後。
出来るだけ安くて、出来るだけ騒がしいところが良い、と言ったのは香恵だ。
滅多にいくことのない安い居酒屋は人で溢れていたけれど、丁度二席だけ空いていた。
舌足らずな店員が私たちを案内し、私たちはそれぞれ、好きな飲み物を頼んだ。
香恵の話したい「色んな事」が何なのか聞きたかったし、今日だけは少し、香恵に吐き出したいことがあった。

でも、いざ、目の前の香恵を見て、そんな気は失せてしまった。
がっかりしたのではない。拗ねたのでもない。悲しかったのでもない。
自分の目前で、あんな風に大気が変わって行くのを見たのが始めてだったからだ。
親友の瞳の色が変わる。それを間近で見るのは新しい感動だった。

昔からつかみ所がないところのある香恵が、
魔法にかけられたように変わっていくのが不思議だった。

淡い色の、それでいて情熱的に伸びる、柔らかな恋の芽。
戯曲が書き下ろされる瞬間に立ち会ってしまったような気分。
そしてそれは、とても懐かしい感情を私に呼び起こさせた。

香恵が「彼」と話をしているのを見て、私はいつのまにか笑っていた。
自分でも驚くぐらい、微笑んでいた。
それで、はじめて、ここ数日、私は作り笑いしか出来ていなかったんだと気づいた。
自分の事は二の次。
それは「頼られることがアイデンティティ」な私の、二番目のアイデンティティだった。

「ちょっと、電話してくるね」

居酒屋の外は、少し肌寒い。
あがらない雨が、軒先から、すとん、すとんと滴を垂らしている。
posted by 弓月ひろみ at 01:15| 恋愛小説 食恋