恋愛小説 食恋 弓月ひろみ

2013年03月21日

第7話オムライス・クライシス

事件は、突然私の上に落ちて来た。
夜まで続くはずだった打ち合わせが十四時で打ち切られることになった。
相手は長い付き合いの編集者。上司と私と彼は、何度かプロジェクトを成功させている。
私たちは週末に良いワインでも傾けながら、新しい企画のブレインストーミングを、しようと集った。
でも、遅いランチの後、かかってきた電話で状況が変わった。
私たちは編集者からトラブルを打ち明けられた。急に編集部にい行く必要が出来たらしい。
私も上司も当然、トラブルを優先して欲しいと伝えて、解散した。
 

小田急線には、強い西日が差し込んでいる。
不意に訪れたご褒美のような時間。それを、どう調理しようかと考える。
私が部屋を出る時、少し不機嫌そうにしていたユタカに、何か作ってあげようか。
ひょろりと細長い体型のユタカの、黒ぶちの眼鏡が曇る姿を思い出し、私は自然と笑みを浮かべた。

ユタカを好きになったのは、放っておくと、買って来た弁当さえ食べないような無頓着さと、
無骨に細い指が、愛おしいと思ったから。
無口なくせに、ザ・ブルーハーツの事となると、人が変わったように饒舌になる。
彼が撮りためた、私と出会う前に行ったというアジア旅行の写真を見るのも好きだった。
出会った頃、私は大学三年で、ユタカは一年だった。バイト先で出会ってすぐ、一緒に暮らし始めた。
親の手前、自分の部屋も借りていたけれど、ほとんど帰ることはなかった。 

年下で、甘えん坊で、いつも言葉の足りない、すこしダメな彼氏。
育てよう、なんておこがましいことを思っていたわけじゃない。
ただ、好き嫌いをなおしたり、本をもっと読むように勧めたり、古い映画を見ようと提案する、
それは全て私たち、ふたりの為だった。
いつまでも一緒にいたいなら、長期的な計画を立てなくちゃならない。
私と、私たちに、ユタカが飽きてしまわないように。
ふたりでいるとワクワクする、新しいことを知ることが出来ると思って欲しい、と思った。

踏切を超えて、坂道を歩く。途中立ち寄ったスーパーの袋が、時々、がさがさと揺れる。
黒いパンツスーツと、NECのパソコンを入れた重たいカバンと、スーパーの袋は、ひどくバランスが悪い。
でも「彼にごはんを作る土曜日の私」という事実があれば、この袋は、私を、心地よい優越感に浸らせてくれた。
きっと、誰かに見て欲しいと思うほど、私は得意気だった。
 

覚えているのは、レベッカテイラーの靴。
部屋の中からは、うっすらと、甘いシナモンの香りが漂っていた。
綺麗な薄緑色の、柔らかな春色の、レベッカテイラー。
両足をもつれさせて脱いだ私の靴は、ことん、斜めに落ちてひっくり返った。

「美希」

ソファに座ったまま、ユタカは私を見て、呆然としていた。
「彼女」は私を振り返って、「お邪魔してます。」と丁寧にいった。
テーブルにはシアトル系コーヒーショップの紙カップが二つあった。
私は、スーパーの袋を、そっと床に置いた。そして、気まずそうな目と再会する。

「おかえり。」

舌の奥のほうにじわじわと溜まる苦みを打ち消すように、唾を飲み込んだ。
粉薬を飲むことに失敗した時のようだ。飲み込んでも飲み込んでも、不快な苦みがゆるゆると広がっていく。
私はこの景色を見たことがあった。
こんなに高いところからではなく、部屋の入口からでもなく「彼女」と同じ場所で。

 7年住んだこの部屋の週末を、仕事で空けてしまうことに、私が感じていた罪悪感は、無意味なものだった。
「新しいショッピングモールに行きたい」と私の背中で甘えたユタカは「しめた」と思っていたのだろうか。
早く帰ってこいよ、と言って、そういえば私が申し訳なく思ってくれる、
その事で自分の罪の意識を軽くしようとしたのだろうか。
求められていないなら、後ろめたさを感じる必要など、なかったのに。

私の目の前には、「ふたり」がいた。
その間には、彼が集めたものや、彼が得て来たものがひろがっていた。
私と出会う前に行った海外旅行の写真、大切な雑誌、好きなアーティストの切り抜き。
ザ・ブルーハーツ。

彼女は、何も知らない。きっと「わたし」がいることも、彼女は知っている。
自分が試されていることも知らない。まだ気づいていない。
でも、私はユタカが好きなものについて話す時の純粋で無垢な様子が、どんなに女を引きつけるものなのか、よく知っていた。 

だからわかった。これは失恋なのだと。
posted by 弓月ひろみ at 01:22| 恋愛小説 食恋