恋愛小説 食恋 弓月ひろみ

2013年03月28日

第8話オムライス・クライシス

何もない「ふたり」に絶望するなど、笑われるかもしれない。
けれど、私は、ユタカが自分以外と「ふたり」を作っていたことが、許せなかった。
私がユタカと経験してきた、はじまりの形を、なぞるようにして新しい恋をはじめようとしている、ユタカが許せなかった。タイ。ベトナム。カンボジア。すり切れた写真。ユタカはこれを彼女に見せたくて、彼女を部屋に呼んだのだ。私が遅くなると知っていて。

「…ただいま。」

出来るだけ掠れた声にならないようにして、私は言うべきことを、喉の奥から絞り出した。

「こんにちは。いらっしゃい。」

まるで最初から、彼女が来る事を知っていたように私は言った。
きっとユタカがそう言っただろうと。気づけば、言葉が、勝手に、するりと口から飛び出していた。

「オムライス、食べていく?」



          
長い髪を束ね、エプロンを締めた。腕をまくった。あと何回このキッチンに立てるだろう。
もしかしたらもう立つこともないのかもしれない、そう思いながら、道具を丁寧に取り出した。
フランス製の重くて赤いフライパン。自分の部屋のキッチンには、こんなにお洒落な道具はない。

私はどんな時でも、彼に夢を与えたくて仕方なかったのだと気づく。
彼が失望しないように、私に恋を続けてくれるように、キッチンにたつ自分を可愛いと思ってくれるように。

「彼女」は、手伝いましょうか、といった。とても自然な声で。私は「大丈夫」と言った。
入られて、なるものか。入られて、なるものか。


 コツン。音を立てて殻が割れる。
それはクリアボウルの中に、するりと、滑り落ちて、ゆらゆら左右に踊って止まった。
まぶしい真昼の海に反射する太陽のようだ。
鮮やかなオレンジの真ん中を、私は、そっと押しつぶす。
黄身がとろとろと流れ出て、マーブルの模様を作る。
素早く、泡立て器でかき混ぜると、リズミカルに音が鳴る。

シャカ、シャカ、シャカ、シャカ。
これが聞こえると、いつもユタカは、少し遠くから「いつできる?」と聞いた。
時にはゲームをしながら、時にはテレビを見ながら、時にはメールをしながら。
だから言葉の最後はいつも、長く間延びして私の耳に届く。
私は真似するように大きな声で、残りの時間を告げる。
テレビや音楽に負けないように。
すると「わかった」と声がして、後は、静かになる。

ユタカは、いつも黙って料理を食べた。
おいしいとか、おいしくないとか、言ってくれたことはなかった。
でも、いつも、耳をそばだてて、私の料理を、待ってくれていることが嬉しかった。


気づくと、ユタカが後ろに立っていた。私は驚いて手を止める。
「…あと二十分ぐらいだよ」
わかった、とユタカは言った。うつむくように、ふてくされたように。
「ごめんね。」
謝ったのは私だった。帰って来て、ごめん。
スピーカーから聞こえるザ・ブルーハーツの「ラブレター」が、それを掻き消した。
 


ユタカの去ったキッチンで、 私はフライパンに向き直る。
コンロに火をつけて、温める。
引いた油に、ブラウンマッシュルームと、薄く切った玉葱を手早く炒める。
ドミグラスソースの缶を、きぃきぃと空ける。
木べらで神経質に搔き出すと、缶は綺麗に空っぽになった。
水と、ワインを加えると、華やかな香りが鼻をくすぐる。
フライパンをもう一つ。バターのとろみのある丸いつぶが、パチパチとはじける。
なんて、いい匂いだろう。じゅう、と音を立てるフライパンを真剣に見つめた。
焦げてしまわないように。失敗しないように。
炊きたての白いご飯にパセリを混ぜる。
チキンライスは作らない。卵は、くるまない。代わりに、チーズオムレツを作る。
私は、ユタカの好きなものを知っている。これを食べられなくなるなんて、可哀想だ、と思った。


パセリライスの上にのせたオムレツを、そうっとナイフで割く。
真ん中から、はじけるように揺れて、とろとろと、黄色くなった玉子が流れ、とけたチーズが現れる。
幸せな湯気がたち、私は、その周りに、ゆっくりソースをかける。
できあがり。呪文のように、つぶやいた。


レベッカテイラーの彼女は、わぁ、と歓声をあげた。
すごい!といって、嬉しそうにした。一口食べただけで、私を絶賛した。
頬を緩ませて、目を輝かせて。ユタカはうつむいていた。
黙って一口ずつ、一口ずつ、スプーンを口へ運ぶ仕草は、今までと変わらなかった。

「美希さん、本当にすごい。いいなぁ。毎日こんなに美味しいものが食べられて。」

彼女はユタカのほうを向いて、そう言った。
ユタカはしばらく黙っていたけれど、

「うん。うまいよ。」

と、私の方を見ないで、一言だけ言った。

それは私が、ユタカから初めてきいた、私への評価だった。
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